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【特集:とちぎ昭和100年】栃木県内襲った未曽有の大災害カスリーン台風 遺族が語り継ぐ

シリーズでお伝えしている「昭和100年」の特集、今回は戦後間もなく、栃木県内に甚大な被害をもたらしたカスリーン台風です。

カスリーン台風は昭和22年1947年9月15日、関東地方に記録的な豪雨をもたらしました。国土交通省によりますと、関東地方の死者は1,100人以上に上っています。

県内では352人が犠牲になり、中でも足利市では321人が亡くなりました。市内を流れる渡良瀬川の堤防が数ヵ所決壊し大規模な洪水が起こったことが被害を拡大させたのです。

広い範囲が浸水し、まちの中心部では、船を使って移動する人の姿があったほどです。

この未曽有の大水害の記憶を風化させまいと継承活動に取り組んでいる人がいます。足利市猿田町にある徳蔵寺の住職源田晃澄さん82歳です。

源田さんは4歳の時にカスリーン台風の被害に遭いました。寺から渡良瀬川の堤防までの距離は約3キロ、本堂にまで大量の濁流が押し寄せてきました。

(徳蔵寺 源田晃澄住職)
「父親が見に行くと同時に水が増えてきて、天井を突く破って逃げた。生きるか死ぬかの瀬戸際の避難だった」

源田さん一家は屋根裏に避難し、辺り一帯が水に飲み込まれる中、聞こえてきたのは助けを求める声。その悲痛な叫びが今でも耳から離れないといいます。


(徳蔵寺 源田晃澄住職)
「たまたまこの寺の周りに杉の木がたくさんあったので、その枝につかまって上に登れた余裕のある方は助かったが、ほとんどの方がその枝につかまって『助けてくれ、助けてくれ』と言っている間に、 だんだんと声が小さくなってパッといなくなった。大きい声で助けてくれと言っていても何かにドーンと当たって、急に声が消えてしまった」


台風が去って一夜明け、外を見るといつもの景色は、そこに無く凄惨な光景が広がっていました。

(徳蔵寺 源田晃澄住職)
「亡くなった人がどんどん寺に運ばれてきて地獄絵だった」

当時を知る被災者として1人でも多くの人をしのぶため、源田さんは台風発生から70年以上経った今もなお、行方不明者の名前を探し続けています。

源田さんの活動は、大阪や名古屋、遠くは海を越えて韓国まで届いているといいます。

(徳蔵寺 源田晃澄住職)
「当時韓国の学校の生徒さんも一緒に流されて、かなりの人が亡くなっている。 家族のお書きしてお読みしていると伝えたらお礼の手紙をいただいたて涙で読めなかった」

渡良瀬川の堤防にたたずむ犠牲者を悼む慰霊碑。その隣には、一体の地蔵が立っています。この地蔵は、カスリーン台風で亡くなった人たちや被災者のために当時あった繊維機械工場の敷地の中に設置されていたものです。

台風から6年後の昭和28年、工場の跡地に警察署が移転するのに伴って、今の場所に移設されました。

毎年9月15日には、源田さんを中心に地元の住民などでつくる慰霊碑保存協議会が、この場所で慰霊祭を行っています。

式典には、遺族や国、市の関係者などが出席し、亡くなった人たちの冥福を祈りました。

カスリーン台風から78年。当時を知る人が年々減る一方で、各地で大きな自然災害が相次ぐ中、源田さんは、教訓を受け継ぐことが使命と強く感じています。

(徳蔵寺 源田晃澄住職)
「古い出来事と思わず、今いつ何が起こるか分からない。自分だけが避難するのではなく人も誘って非難する。実行力を強める人間性を高めてほしい」