×
Menu
とちテレHOME

栃木の今が分かる!!NEWS 栃木の今が分かる!!NEWS

県内ニュース

【戦後80年】宇都宮から南洋へ アンガウル島の記憶をたどる

かつて宇都宮から遠い南洋の島に出兵した兵士たちがいました。

彼らがたどり着いたのは、日本から南に約3,200キロ離れた島国パラオの南端にあるアンガウル島。太平洋戦争の末期、し烈な戦場となったこの島には現在も戦いの爪痕が残されています。

とちぎテレビでは日本のテレビ局として初めてアンガウル島を取材しました。

この島で何があったのか、当時の記憶をたどります。

今から117年前の1908年・明治41年、宇都宮には旧日本陸軍の部隊第14師団が置かれました。

県をあげて行われた師団の誘致により、宇都宮の人口は爆発的に増加。師団が置かれる前の1906年に3万8,000人だった人口は、太平洋戦争が開戦した翌年の1942年には9万人を超え経済的な効果をもたらしたといいます。

この師団の中核をなしかつて「精鋭」と呼ばれた部隊があります。歩兵第59連隊です。栃木県民が大半を占めていた第59連隊の兵士たちは、徴兵検査で最も兵役に適していると判定された上位30パーセントほどのいわゆる「甲種合格者」で構成されていました。彼らはその屈強ぶりを発揮しながらシベリアや朝鮮半島などで任務にあたり、太平洋戦争が始まるころには満州に駐屯していました。

そして太平洋戦争末期の1944年3月、第59連隊の一部である第1大隊に命じられたのは、パラオ南端の離島・アンガウル島への転進でした。

パラオは当時、戦局の厳しい日本が戦争を続けるために必要不可欠な領域として定めた「絶対国防圏」に含まれていて、いわば「海の生命線」でした。なかでもアンガウル島は飛行場に適していたことから、戦略的に重要な地点だったということです。

その年の9月17日、アメリカ軍が戦艦などの激しい爆撃とともに島の北東と東にある2カ所の海岸から上陸してきます。日本兵の数、約1,200に対し、アメリカ兵は約2万1,000、実に20倍ほどの兵力を前に苦戦を強いられます。旧日本軍は抵抗を続けたものの、アメリカ軍の上陸からおよそ1か月後の10月19日が最後の攻撃となり、そのほとんどが戦死しました。

この戦いから生還したわずか50人ほどの日本兵の中に分隊長として戦った栃木県出身の兵士がいます。栃木県西方村、現在の栃木市西方町に生まれた舩坂弘軍曹です。

息子の舩坂良雄さんは、戦争経験者としての父・舩坂軍曹の生涯をそのすぐそばで見てきました。

舩坂軍曹は、アンガウル島の戦いで、腹や太もも、それに首など全身の数十カ所に傷を負いました。最後は敵の司令部に一人で自爆攻撃を仕掛けようとして捕虜になりますが、収容所から脱走を試みたり飛行場を爆破しようとしたりしたということです。

「不死身の分隊長」として現代にも語り継がれる舩坂軍曹。日本に帰還すると、アメリカの先進的な産業や文化を学ぶことが国を豊かにすると考え、東京・渋谷区で書店を経営します。その書店が渋谷のスクランブル交差点の一角にある大盛堂書店です。現在も店には、舩坂軍曹が戦争体験をつづった著書が並び、激戦の記憶を今に伝えます。

戦後80年。現在もアンガウル島には慰霊碑や神社など日本の兵士たちがいた証が多く存在します。

宇都宮を離れ遠い南洋の島で命を落とした兵士たち。ここで起きた現実から何を受けとり何を伝えていくのか、向き合うのはあの時代に生きた誰かではなく、今を生きる私たちです。
画像1