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【戦後80年特集】風が伝えた隊長の願い パラオ・アンガウル島で戦没者の遺骨収集

日本から南に約3,200キロ太平洋の楽園・パラオ。世界有数のサンゴ礁が広がり、個性豊かな魚が生息するダイビングの聖地です。

パラオの言語はパラオ語と英語のほか、日本が統治していた時の名残から日本語由来の言葉も多く使われていて、「daiziob(大丈夫)」や「kempo(憲法)」などもそのうちの一つです。

経済の面でも深い結びつきがあり、パラオの本島・コロール島には日本の政府開発援助=ODAによって「日本・パラオ友好の橋」が建設されています。

この島からさらに南に60キロ、パラオの南端にあるのが人口140人ほどの小さな離島・アンガウル島です。

太平洋戦争末期、1944年の9月から10月にかけて、この島では旧日本軍とアメリカ軍が激しい戦闘を繰り広げました。

戦ったのは、栃木県宇都宮市に駐屯していた旧日本陸軍第14師団の精鋭部隊、「歩兵第59連隊」。大半が栃木県出身者で組織されていて、徴兵検査で最も兵役に適していると判定された上位30パーセントほどのいわゆる「甲種合格者」で構成されていました。

しかし旧日本兵のおよそ20倍の規模で攻めてきたアメリカ兵をまえに、そのほとんどが命を落としました。

戦いから80年以上たった今も、島には多くの戦没者が眠っています。

島の南西部にある島民たちの墓地、この隣にアメリカ兵が旧日本兵の遺体を埋めたとされる墓地が確認されています。ここでは、厚生労働省の委託を受けた「日本戦没者遺骨収集推進協会」による遺骨の収集事業が、2018年から年に数回行われています。

とちぎテレビでは、2025年2月に行われたアンガウル島での遺骨収集に日本のテレビ局として初めて同行しました。

2016年に戦没者の遺骨収集の推進を「国の責務」と位置づけた法律が成立したことから、本格的に活動が始まったこの事業。収集はアメリカ軍が埋葬場所を記した当時の地図を参考に、考古学や遺骨鑑定の専門家の指導のもと行われます。

遺骨収集の現場に、一人の男性の姿がありました。後藤寛さん(75)です。

寛さんの伯父は、この島で戦死した歩兵第59連隊の第1大隊長・後藤丑雄少佐です。長野県に生まれた後藤少佐は、陸軍の士官学校などを経て、1943年に大隊長に就任。アンガウル島で戦う兵士たちを1カ月余りにわたって指揮し、最後は自らも前線に向かい命を落としました。

寛さんは戦後間もない1949年に生まれたため、伯父の後藤少佐に直接会ったことはありません。これまでに15回アンガウル島に渡り、言葉を交わしたことのない伯父のためになぜ遺骨の収集を行っているのでしょうか。

後藤寛さん
「初めてアンガウル島に行った時、島の風の音に伯父が『仲間を日本へ連れて帰ってくれ』と言っているように聞こえた」

高温多湿なアンガウル島、過酷な環境下で遺骨収集は黙々と進みます。

しかし去年の夏に行われた活動中、収集団のメンバーが色めき立ちました。

アメリカ軍が作成した地図に、後藤少佐を埋葬したと書かれていた一画から、担架に乗った遺骨が見つかったのです。遺骨はあおむけの状態で、丁寧に埋葬された様子がうかがえました。

寛さんは身元確認のDNA鑑定のため検体を提出し、その結果を待っているということですが、常に心にあるのは後藤少佐とともに戦った仲間たちのことです。

2025年2月、アンガウル島での遺骨収集事業は、新たな一歩を踏み出しました。

2018年に収容された遺骨のうち5柱が日本人だと判明し、アンガウル島から初めて日本に帰還したのです。東京・千代田区の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた遺骨の引き渡し式には、国会議員や関係団体、各地の遺族会などが参列し遺骨に花を手向けました。

アンガウル島の墓地からは2025年2月までに、合わせて180柱が見つかっていて、直近に行われた6月の収集事業では、さらに数十柱が収容されました。

しかし厚生労働省は、遺骨の一部を検体として日本に送り、日本人のものだと判定されなければ遺骨の全てを現地から送り還すことができないとしていて、その鑑定に時間がかかっている現状があります。

栃木県の福田富一知事。母方の祖父がアンガウル島で戦死していて遺骨の帰りを待つ1人です。

アンガウル島の海岸沿いの一角にある旧日本兵の慰霊碑には、後藤少佐をはじめ戦いで命を落とした兵士たちの名前が刻まれています。

また島の中には「那須岬」や「鬼怒岬」といった栃木にゆかりのある名前が付けられた地名も残っています。

戦後80年。この島で今もなお眠る兵士と、帰りを故郷で待つ人たち。その願いを形に、1日も早い遺骨の送還が求められています。