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【戦後80年特集】父の痕跡を求めて ペリリュー島で亡くなった父への思い

日本から南におよそ3千キロメートル離れたパラオ諸島の一つに、ペリリュー島があります。

コバルトブルーの美しい海に囲まれた島ですが、今から81年前の1944年、太平洋戦争中に日本軍とアメリカ軍の激しい地上戦が行われ、1万人を超える日本人が命を落としました。

この中に宇都宮市出身の、高橋信吉さんがいました。

信吉さんが家族に宛てた手紙が今年、宇都宮城址公園の清明館で初めて公開されました。
この手紙は、信吉さんの娘の宮下喜美代さん83歳が、母親から引継ぎ大切に保管されていたものです。

信吉さんは喜美代さんが生まれる前に戦地で帰らぬ人となりました。
喜美代さんは、遺骨もなく、亡くなったことしか分からない父親のことを少しでも知りたいと、去年、清明館を訪れ、宇都宮市の職員大塚雅之さんと一緒に痕跡を探し始めました。

大塚雅之さん:
「私がこの調査を承った理由が、最初に宇都宮出身の方がペリリュー島で亡くなられていると聞いて、おやっと思った」

ペリリュー島は当時、水戸の部隊が配置されている場所でしたが、宇都宮出身の信吉さんが帯同していたのです。

大塚雅之さん:
「そのヒントになってくれたのが、この『はがき』です」

ハガキに押されていた検閲済みのハンコが、信吉さんの居場所を突き止めるカギとなったのです。
また調査を進めるうちに、信吉さんの役割も見えてきました。

大塚雅之さん:
「中隊本部の事務の仕事をしていたようです」

大塚さんは、兵士であれば通常、午後9時30分頃には消灯し、それ以降は起きていなかったのではといいます。

大塚雅之さん:
「『24時になったので、眠くなったから止めた。伍長さんから”すいとん”をごちそうになった』。きっと中隊の事務室でいろいろな仕事を引き受けながら、真夜中すいとんを差し入れしてくれたりとか、かわいがられたのではないか。」

宮下喜美代さん:
「信ちゃんは優しかったんだよって。皆さんにもきっとね」

大塚雅之さん:
「手紙にもそういうのが読み取れます」

優しい父・信吉さんは、喜美代さんが生まれる2カ月ほど前に中国東北部の満州国に出兵していて、手紙には愛する娘に思いを馳せた内容が多く記されています。
こちらの手紙には、翌年、数え年で3歳を迎える喜美代さんの、七五三姿を宇都宮で見たいという思いがつづられています。
一年後、その思いは叶わず、この手紙には喜美代さんが3歳になった祝いの短歌が添えられていました。

宮下喜美代さん:
「『つつがなく 三歳享けし 愛子の 育みいのらん 産土の神』という歌なんですよね。産土の神っていうのは、宇都宮の二荒山神社なんです。今でも必ず月に1回くらいは行くようにしている。二荒山神社に行くと心が落ち着く。良いものを残してくれていた」

大塚さんは調査を進める中で、喜美代さんにとって父を知ることができる1冊の本にたどり着きました。

大塚雅之さん:
「最終的にこれにたどり着くわけです。見ていったらここにいらしたんですよね。高橋信吉さん」

宮下喜美代さん:
「『高橋信吉』っていうこれが欲しかった。この名前がね。亡くなったって、何の名前も、写真1つない。何もない。私に対しては、ただはがきを預けてくれた。それで私にも調べたいという使命はきっとあった。ちゃんと高橋信吉さんがここにいたんですよ」

喜美代さんに、はがきを見せてもらいました。

宮下喜美代さん:
「全部で80通くらい。手紙があったからここまでいろいろな、父がペリリュー島に行って亡くなったことがわかった。『わかってくれよ』っていう父親のメッセージじゃないかと今は思っている」

そして2011年、喜美代さんは家族と、父が眠るペリリュー島を訪れました。

宮下喜美代さん:
「ずっと自分の胸に納めておいた。ある程度、物心がついたときには。必ず一生に一回、父が亡くなったところに行って、お花を手向けてこようというのが念願だった。それを2011年に息子たちと家族で、個人的に行くことができた」

宮下喜美代さん:
「お墓もあったので本当に良かった。お墓参りができたんです」

戦後80年に手紙を公開したことで心境に変化も生まれ、疎遠になっていた父のお墓を20年ぶりに訪れました。

宮下喜美代さん:
「これが父の(お墓)」

「信吉31才」と刻まれた石碑が、そこに今も残っていました。

宮下喜美代さん:
「戦後80年。ちゃんとお父さんのハガキを持っていたからね。お父さんね。それで皆さんに見ていただいて。良かったね。お父さんね。私もこの1年でいろいろ父親のこととか・・・。そのうちお父さん私も行くからね。待っててね。お父さんが31で私が80じゃ、見つけるには骨折れちゃうかもしれません」

最後に、喜美代さんに、お父さんの命を奪った「戦争」について聞きました。

宮下喜美代さん:
「お父さんの大変な、歩んできた戦争というものに対して、結局父親は命だけ失って亡くなっていった。皆さんに(はがきを)見てもらって、お父さんもこれからゆっくり休めるね」
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