関東・東北豪雨から10年 遺族の女性が初めて息子のもとへ
栃木県などに甚大な被害をもたらした関東・東北豪雨。
10年前の2015年9月9日、台風から変わった温帯低気圧の影響で、栃木県の上空には多数の線状降水帯が次々と発生しました。
翌日、10日の未明には、県内で初めて大雨特別警報が発令され、11日にかけて記録的な大雨となりました。
この大雨の影響で、県内では3人が亡くなったほか、住宅は全壊や半壊、それに浸水など、合わせて6千500戸を超える被害が出ました。
作新学院中等部の体育教師、佐藤裕子さん64歳です。
4年前に定年を迎えましたが、現在も週に4日間、体育の講師として教壇に立ち続けています。
学校では「裕子先生」と呼ばれ、誰よりも元気に授業を行い、生徒から相談を受ければ、どんなことも笑い飛ばして励ましてくれるパワフルさが持ち味です。
いつも生徒に囲まれて、太陽のように周りの人に力を与えている佐藤さんですが、10年前、暗闇の中に放り込まれるような出来事が突然訪れました。
佐藤さんには息子が2人、娘が1人いました。
長男の悦史さんは、日光市内の障がい者支援施設で働いていました。
明るい性格で、人を笑顔にするのが得意だったといいます。
しかし、2015年9月10日。
豪雨で冠水した職場周辺で、率先して復旧作業を行っていた矢先に、排水溝に吸い込まれ、翌日、25歳の若さで帰らぬ人となりました。
先月末、佐藤さんの自宅では悦史さんの10回忌が行われ、悦史さんの弟と妹、離れて暮らす家族も駆け付けて、皆で悦史さんを悼みました。
佐藤 裕子さん:
「『10年か』というのと『もう10年』というのが入り混じる。一日も息子を忘れたことはない。名前を呼ばなかった日はない。10年経って息子がいなくなった悲しみは癒えないけど、息子が近くに感じる生活ができている」
この10年、佐藤さんの心の中では、いつも悦史さんと二人三脚の思いで歩んできました。
事故の直後から佐藤さんは、亡き崩れる日々が長く続きましたが、悦史さんの死を通して、教えられたことがありました。
佐藤 裕子さん:
「『母さん教師でしょ』と。『母さんができることは子どもを先に失う悲しさ、そういう思いをしたからこそ分かったこととかあるでしょ』と。『生徒に命の重さや大切さを伝えるのは母さんじゃない』って息子が教えてくれたなと。それを全うしようという思いで立ち上がって、5年過ぎ、そして退職の時を迎えて、その後もその気持ちは常に持って子どもと接するようにしていました」
悦史さんから教わった、教師として子どもたちに「命の大切さを教える」こと。
この日、佐藤さんは間近に控えた運動会に向けて、2年生のクラスを指導していました。
佐藤さんは生徒に「生きていること」を感じながら、全力で今を楽しんでほしいと呼びかけます。
佐藤 裕子さん:
「この仲間と一緒に何かを作り上げる、この仲間と何かをやり遂げる。こういう時間は長い人生の中ですごく大事な時間。『ある命を精一杯生き抜く』ということで頑張っていきましょう」
佐藤 裕子さん:
「子どもたちが日常生活の中で簡単に『死ね』という言葉を飛び交わせることが多い。その時が出番だと思って『ちょっと待って』と。命が消えるという本当の意味を私の体験を通して子どもに伝える。その時が『母さん教師だろう?今だろう?』っていうのが聞こえる。『これだ』って思って伝える」
佐藤 裕子さん:
「命の重さっていうのを伝えると、生徒たちも、さっきまでガチャガチャしていた雰囲気が、スーッと浸透していく音を感じる。息子が言ったことを、私の口を通して今生きている現在頑張っている生徒たちに、通じてくれいているのを感じる時が一番嬉しい」]
なぜ息子が亡くならなければならなかったのか。
佐藤さんはあの日から10年経つ今年、ある決心をしました。
当時の状況を知るため、悦史さんが犠牲となった場所に初めて訪れたのです。
事故が起きてから5年ほどは、亡くなった場所を見るのも怖くて近くを通ることもできなかったと話します。
長い月日を経て、息子に会いたいという思いが心を動かしました。
佐藤 裕子さん:
「10年目にして会いに来ました。よっちん大変だったね。でもやっとお母さんもここに来れたよ。10年前苦しかったけどね、皆のために働いて偉かったね。今日ここへ来て、鳥肌が立つ思いがしますが、最初はこっちを見るのも怖かった。でもこの地に足を踏み入れるのはなかなか勇気が出なかったけど、悦が最後力を振り絞って生き抜いた場所に10年経ったった今、足を踏み入れて花を手向けられたというのは、時間が心の中を整理してくれたのかなとも感じるし、悦に会いにこれて良かったなと思います」
悦史さんは、佐藤さんが勤務する作新学院中等部の生徒でもあり、当時は陸上部の顧問と部員の間柄でもありました。
佐藤さんは部活の時間に重要なことを伝えていました。
佐藤 裕子さん:
「『年長者が動いていたらすぐに手伝うんだよ』って言い続けていた気がするので。それを懸命にやったんだなって感じられたので。ちゃんと私が伝えていたことをやって逝ったんだなって思えた瞬間だったかなと思いました」
息子がいないという現実は、10年が経とうとも空虚な気持ちを埋めることはできませんが、佐藤さんは悦史さんが残してくれた沢山の絆に支えられて、今、前を向いて歩いています。
佐藤 裕子さん:
「お友達が毎年のように悦に会いに来てくれる。そこで悦の思い出話を聞かせてくれたり。そこで最初は笑えなかったけれど癒されていった。だから来られたのかなっていうのも思います」
佐藤さんは今、災害で大切な家族を失った一人として、そして子どもたちを導く教師としてこう話します。
佐藤 裕子さん:
「災害で命を守る行動っていうのは、情報をいち早く察知して、情報が出たのであれば、そこに向かわない、そこを避ける行動をとるのが第一優先だと思う。命を守る行動はなかなか難しいとは思うが、そういう場所に近付かないとか、そういうときは外に出ないとか、そういう選択ができればいいと思う。生徒にもそうしてほしい」
10年前の2015年9月9日、台風から変わった温帯低気圧の影響で、栃木県の上空には多数の線状降水帯が次々と発生しました。
翌日、10日の未明には、県内で初めて大雨特別警報が発令され、11日にかけて記録的な大雨となりました。
この大雨の影響で、県内では3人が亡くなったほか、住宅は全壊や半壊、それに浸水など、合わせて6千500戸を超える被害が出ました。
作新学院中等部の体育教師、佐藤裕子さん64歳です。
4年前に定年を迎えましたが、現在も週に4日間、体育の講師として教壇に立ち続けています。
学校では「裕子先生」と呼ばれ、誰よりも元気に授業を行い、生徒から相談を受ければ、どんなことも笑い飛ばして励ましてくれるパワフルさが持ち味です。
いつも生徒に囲まれて、太陽のように周りの人に力を与えている佐藤さんですが、10年前、暗闇の中に放り込まれるような出来事が突然訪れました。
佐藤さんには息子が2人、娘が1人いました。
長男の悦史さんは、日光市内の障がい者支援施設で働いていました。
明るい性格で、人を笑顔にするのが得意だったといいます。
しかし、2015年9月10日。
豪雨で冠水した職場周辺で、率先して復旧作業を行っていた矢先に、排水溝に吸い込まれ、翌日、25歳の若さで帰らぬ人となりました。
先月末、佐藤さんの自宅では悦史さんの10回忌が行われ、悦史さんの弟と妹、離れて暮らす家族も駆け付けて、皆で悦史さんを悼みました。
佐藤 裕子さん:
「『10年か』というのと『もう10年』というのが入り混じる。一日も息子を忘れたことはない。名前を呼ばなかった日はない。10年経って息子がいなくなった悲しみは癒えないけど、息子が近くに感じる生活ができている」
この10年、佐藤さんの心の中では、いつも悦史さんと二人三脚の思いで歩んできました。
事故の直後から佐藤さんは、亡き崩れる日々が長く続きましたが、悦史さんの死を通して、教えられたことがありました。
佐藤 裕子さん:
「『母さん教師でしょ』と。『母さんができることは子どもを先に失う悲しさ、そういう思いをしたからこそ分かったこととかあるでしょ』と。『生徒に命の重さや大切さを伝えるのは母さんじゃない』って息子が教えてくれたなと。それを全うしようという思いで立ち上がって、5年過ぎ、そして退職の時を迎えて、その後もその気持ちは常に持って子どもと接するようにしていました」
悦史さんから教わった、教師として子どもたちに「命の大切さを教える」こと。
この日、佐藤さんは間近に控えた運動会に向けて、2年生のクラスを指導していました。
佐藤さんは生徒に「生きていること」を感じながら、全力で今を楽しんでほしいと呼びかけます。
佐藤 裕子さん:
「この仲間と一緒に何かを作り上げる、この仲間と何かをやり遂げる。こういう時間は長い人生の中ですごく大事な時間。『ある命を精一杯生き抜く』ということで頑張っていきましょう」
佐藤 裕子さん:
「子どもたちが日常生活の中で簡単に『死ね』という言葉を飛び交わせることが多い。その時が出番だと思って『ちょっと待って』と。命が消えるという本当の意味を私の体験を通して子どもに伝える。その時が『母さん教師だろう?今だろう?』っていうのが聞こえる。『これだ』って思って伝える」
佐藤 裕子さん:
「命の重さっていうのを伝えると、生徒たちも、さっきまでガチャガチャしていた雰囲気が、スーッと浸透していく音を感じる。息子が言ったことを、私の口を通して今生きている現在頑張っている生徒たちに、通じてくれいているのを感じる時が一番嬉しい」]
なぜ息子が亡くならなければならなかったのか。
佐藤さんはあの日から10年経つ今年、ある決心をしました。
当時の状況を知るため、悦史さんが犠牲となった場所に初めて訪れたのです。
事故が起きてから5年ほどは、亡くなった場所を見るのも怖くて近くを通ることもできなかったと話します。
長い月日を経て、息子に会いたいという思いが心を動かしました。
佐藤 裕子さん:
「10年目にして会いに来ました。よっちん大変だったね。でもやっとお母さんもここに来れたよ。10年前苦しかったけどね、皆のために働いて偉かったね。今日ここへ来て、鳥肌が立つ思いがしますが、最初はこっちを見るのも怖かった。でもこの地に足を踏み入れるのはなかなか勇気が出なかったけど、悦が最後力を振り絞って生き抜いた場所に10年経ったった今、足を踏み入れて花を手向けられたというのは、時間が心の中を整理してくれたのかなとも感じるし、悦に会いにこれて良かったなと思います」
悦史さんは、佐藤さんが勤務する作新学院中等部の生徒でもあり、当時は陸上部の顧問と部員の間柄でもありました。
佐藤さんは部活の時間に重要なことを伝えていました。
佐藤 裕子さん:
「『年長者が動いていたらすぐに手伝うんだよ』って言い続けていた気がするので。それを懸命にやったんだなって感じられたので。ちゃんと私が伝えていたことをやって逝ったんだなって思えた瞬間だったかなと思いました」
息子がいないという現実は、10年が経とうとも空虚な気持ちを埋めることはできませんが、佐藤さんは悦史さんが残してくれた沢山の絆に支えられて、今、前を向いて歩いています。
佐藤 裕子さん:
「お友達が毎年のように悦に会いに来てくれる。そこで悦の思い出話を聞かせてくれたり。そこで最初は笑えなかったけれど癒されていった。だから来られたのかなっていうのも思います」
佐藤さんは今、災害で大切な家族を失った一人として、そして子どもたちを導く教師としてこう話します。
佐藤 裕子さん:
「災害で命を守る行動っていうのは、情報をいち早く察知して、情報が出たのであれば、そこに向かわない、そこを避ける行動をとるのが第一優先だと思う。命を守る行動はなかなか難しいとは思うが、そういう場所に近付かないとか、そういうときは外に出ないとか、そういう選択ができればいいと思う。生徒にもそうしてほしい」
