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【戦後80年特集】小金井空襲体験の女性 「平和祈って」簡単に言えない

今から80年前の7月28日、当時の国鉄・小金井駅に止まっていた列車が、アメリカ軍戦闘機の銃撃を受けた際の映像が残っていました。

「小金井空襲」。

宇都宮駅から上野駅に向かっていた列車が機銃掃射を受け、合わせて31人が死亡およそ80人が負傷しました。
県内では620人以上が亡くなった宇都宮空襲に次ぐ大規模な空襲です。

下野市役所では、地元であった空襲について知ってもらおうと、1階ロビーでパネル展を開いています。
小金井駅にアメリカ軍の飛行機が迫ってくる絵。
駅で被害の大きかった場所を示した図面。
そして標的となった宇都宮発上野行き列車の当時の時刻表。

このような大きな被害がありながら厳しい言論統制が影響し、実はその後、この惨劇が公に語られることはほとんどありませんでした。
しかし1993年、空襲当時、小金井駅に勤務していた男性が、被害者などの証言をまとめた本を出版し、長い間埋もれていた事実を世に明らかにしたのです。

空襲があった現在の小金井駅です。

亡くなった人々を悼み、戦争が二度と起こらないように祈って、1998年に慰霊碑「平和の礎」が建てられました。
この慰霊碑の前で毎年、慰霊祭が開催されています。
今年も7月27日に行われ、空襲の体験者や遺族、それに小金井駅の関係者などが参列しました。

宇都宮市に住む簗昌子さん90歳です。
10歳のときに小金井空襲を体験し、奇跡的に生還しました。

簗さんは当時、7月12日に起きた宇都宮空襲で家をなくし、家族5人で新潟に疎開しようと宇都宮駅から上野行きの列車に乗り込みました。
小金井駅の手前まで進み、当時トンネル状に生い茂っていた松林を抜けたところで、最初の銃撃に遭いました。
これが小金井空襲の始まりです。

現在も当時の面影を残す松林が、小金井駅の一つ前、自治医大駅付近にあります。

簗昌子さん:
「電車が途中で止まった。窓から見たときには飛行機が降りてきた。左の方から来てバリバリと撃って。撃っている人の顔が笑って見えるほど近い場所から、ニヤッと笑いながら撃つ。それまで低く飛んでくる」

操縦士と目が合うと、簗さんに銃口を向けて撃ってきたといいます。

簗昌子さん:
「自分が避けたために、隣にいた(見知らぬ)お姉さんの(頬)に玉が当たって顔が裂けた。いくつになっても頭から離れない。私が避けなければあのお姉さんの顔に玉が当たらなかった」

列車内には、戦没者の遺骨を抱えた人々や兵士など大勢の人が乗っていました。

簗昌子さん:
「遺骨をやられて自分もやられて倒れている。倒れている人の上を踏んで。いくつになっても頭から離れない。申し訳ない。外から見えない電車の中の悲惨な状態」

銃撃を受けた列車は、小金井駅に到着したところで再び、アメリカ軍戦闘機3機による機銃掃射を受けることになります。

簗昌子さん:
「駅に着いて(西口に)逃げてきた。防空壕に入った。防空壕はこの下にあった。」

簗さんが防空壕の外に出ると、衝撃的な光景を目の当たりにします。

簗昌子さん:
「人が山のように積まれていた。それを車に積んで運んでいたのをずっと見ていた。あれは嫌ですね。戦争はだめです。ここは本当に大変な場所です」

一方、悲惨な状況の中で心温まる出来事もありました。

簗昌子さん:
「食べるものは何もなかった。何かの方がおにぎりを炊き出してくれた。一生忘れられない味ですよね。どんなにおいしいものを食べても、塩むすびのおにぎりは忘れられないです」

簗さんは、この時の経験を80年間、片時も忘れたことはありません。

簗昌子さん:
「子どものときだけど、ここで空襲があって私は生き方が変わった。『ここがあったから』というのは、一生頭の中から離れません。その場にいて事実を見たのはすごいこと。生きていくための道しるべになっています。(戦争は)ないことが一番。なんで戦争が起きるのか考えたときに、最初は小さいことから。だんだん大きくなっていく。元が小さいうちになんとか止めなければいけない。大きくなってからではどうしようもない。みんな世界中のことも考えて(戦争を)止めていかなければいけない。止めていってほしい」

戦後80年を迎えようとする中、簗さんは「平和を祈る」とは言いたくないと打ち明けてくれました。
それは「何が起こるか分からない」。
だから簡単に言葉にすることはできないのです。
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