【報道特集】医療的ケア児を支える小児科医・高橋昭彦さん 地域で支える体制づくりに奔走
どんぐりや、もみじの葉っぱで装飾された帽子を被り、子どもたちと交流するこの男性は、小児科医の高橋昭彦さんです。(※高は「はしごだか」)
高橋医師は宇都宮市内で、医療に頼らないと生きていけない重い障がいがある子ども、いわゆる医療的ケア児を、日中一時的に預かる施設、NPO法人「うりずん」の理事長を務めています。
うりずんは、県内でこうした施設の先駆けとして、高橋医師が2008年に開設しました。
医療的ケア児は全国に2万人、県内に約400人いるとされ全国的に増加しています。
一方で、家族を含めた包括的な支援体制の整備はまだ十分とは言えず、単に医療的ケアをするだけではなく地域で支える仕組み作りが重要となっています。
高橋医師は現在、毎日5人前後の訪問診療を行っています。
高橋昭彦医師:
「医療的な話をせずに世間話とギャグを言って終わるのが一番理想です。そういったときはお身体が元気な証拠。これから行くお家は、昨日退院されたのできっとそういうことはないとは思います」
この日は看護師の増山弘子さんとともに3歳の女の子の家を訪れました。
宮内花恋さんです。
花恋さんは、全前脳胞症・先天性水頭症という脳の病気を抱えて産まれました。
成長ホルモンが作られないため免疫機能が低下し、風邪を引いて肺炎となって集中治療室で入院したこともあったといいます。
24時間の体調チェックに片時も目を離すことはできません。
高橋医師は何気ない会話をして、患者と家族に寄り添いながら診察を行っていきます。
その姿は、日々楽しく前向きに花恋さんを支える家族にとって、心強い存在です。
花恋さんの祖父 宮内弘文さん:
「高橋先生のような方がいるから自分たちも安心して仕事ができる。ずっと不安があるので」
高橋医師が医療的ケア児の支援事業を始めたきっかけは20年ほど前。
人工呼吸器を付けた子どもの母親が体調不良になり、代わりに父親が仕事を休んで介護をする現実を目の当たりにしたことでした。
高橋昭彦医師:
「お母さんが熱を出したらお父さんが休むのは普通かもしれない。その当時はものすごく珍しかったし、それしか手がなかった。これは普通じゃないと思って」
施設名の「うりずん」は春から夏にかけて暖かくなる季節を表す沖縄の方言で、子どもたちとその家族にゆったりと時間を過ごしてほしいという思いが込められています。
トレードマークの帽子も、少しでも楽しいと感じてもらいたいと8年ほど前から被り始めました。
そんな温かい空気が流れる施設で、この日過ごしていたのは未就学児の子どもたちです。
人工呼吸器の管理のほか、管を鼻やへそに通して栄養を送るケアを、看護師、保育士、理学療法士と様々な資格を持つ職員で連携して対応しています。
高橋医師は、下野市の自治医科大学医学部を卒業後、出身地の滋賀県や栃木県内で地域の在宅医療に携わってきました。
そこで強く感じたのが、重い障がいがある子どもとその家族が自分らしい生活を送るために、できることはないかということでした。
高橋昭彦医師:
「力を入れているのは在宅医療です。(医療を必要とする)お子さんたちはいろんな管が付いたり機械が付いているので簡単に通院できない。入院を必要としない程度の医療は地域でできたほうがいいと思うので」
しかし当時勤務医だった高橋医師には、小児科の在宅医療を受け入れる決定権がありませんでした。
葛藤を抱える中2001年9月、アメリカのホスピス研修に参加し責任者のシスターからかけられた言葉が心に響きます。
高橋昭彦先生:
「あなたの目の前のことをやりなさい。そうすれば必要なものは現れるからと。すとんと胸に落ちた」
そして数日後の9月11日、あの出来事が起こりました。
高橋昭彦先生:
「ある病院のホスピスを見に行ったら、その前方にあったビルが崩れて辺りに悲鳴が上がって、緊急車両も埃かぶって逃げてきて」
ニューヨークのマンハッタンでアメリカ同時多発テロに遭遇したのです。
高橋昭彦先生:
「緊急避難も経験して、もし自分が無事に日本に戻ることができたら自分の思い通りのことをやろうと。あれがなかったら思いきらなかった」
決意を固めてからわずか半年後の2002年5月、宇都宮市内にクリニックを開業。
これが医療的ケア児の一時預かり事業につながっていきます。
高橋医師は3年前から、栃木県から委託を受けて、医療的ケア児とその家族の相談所を開設しセンター長を務めています。
県民に広く医療的ケア児への理解を深めてもらうのも仕事の柱となっています。
高橋昭彦医師:
「病院で暮らすのはお子さんの成長にとって一番良いことでしょうか。そうではないと思います。もっと経験を積んでほしい。子どもは病院で育つのではない。社会全体で抱きしめて育てる」
社会全体で医療的ケア児を支えるために。
高橋医師は新たなビジョンを思い描いています。
高橋昭彦医師:
「社会的にお子さんを育てる仕組みがどこかで必要だと思う。将来的にはそういったお子さんたちが暮らせる家、グループホームのようなものを作れればと思う」
高橋医師は宇都宮市内で、医療に頼らないと生きていけない重い障がいがある子ども、いわゆる医療的ケア児を、日中一時的に預かる施設、NPO法人「うりずん」の理事長を務めています。
うりずんは、県内でこうした施設の先駆けとして、高橋医師が2008年に開設しました。
医療的ケア児は全国に2万人、県内に約400人いるとされ全国的に増加しています。
一方で、家族を含めた包括的な支援体制の整備はまだ十分とは言えず、単に医療的ケアをするだけではなく地域で支える仕組み作りが重要となっています。
高橋医師は現在、毎日5人前後の訪問診療を行っています。
高橋昭彦医師:
「医療的な話をせずに世間話とギャグを言って終わるのが一番理想です。そういったときはお身体が元気な証拠。これから行くお家は、昨日退院されたのできっとそういうことはないとは思います」
この日は看護師の増山弘子さんとともに3歳の女の子の家を訪れました。
宮内花恋さんです。
花恋さんは、全前脳胞症・先天性水頭症という脳の病気を抱えて産まれました。
成長ホルモンが作られないため免疫機能が低下し、風邪を引いて肺炎となって集中治療室で入院したこともあったといいます。
24時間の体調チェックに片時も目を離すことはできません。
高橋医師は何気ない会話をして、患者と家族に寄り添いながら診察を行っていきます。
その姿は、日々楽しく前向きに花恋さんを支える家族にとって、心強い存在です。
花恋さんの祖父 宮内弘文さん:
「高橋先生のような方がいるから自分たちも安心して仕事ができる。ずっと不安があるので」
高橋医師が医療的ケア児の支援事業を始めたきっかけは20年ほど前。
人工呼吸器を付けた子どもの母親が体調不良になり、代わりに父親が仕事を休んで介護をする現実を目の当たりにしたことでした。
高橋昭彦医師:
「お母さんが熱を出したらお父さんが休むのは普通かもしれない。その当時はものすごく珍しかったし、それしか手がなかった。これは普通じゃないと思って」
施設名の「うりずん」は春から夏にかけて暖かくなる季節を表す沖縄の方言で、子どもたちとその家族にゆったりと時間を過ごしてほしいという思いが込められています。
トレードマークの帽子も、少しでも楽しいと感じてもらいたいと8年ほど前から被り始めました。
そんな温かい空気が流れる施設で、この日過ごしていたのは未就学児の子どもたちです。
人工呼吸器の管理のほか、管を鼻やへそに通して栄養を送るケアを、看護師、保育士、理学療法士と様々な資格を持つ職員で連携して対応しています。
高橋医師は、下野市の自治医科大学医学部を卒業後、出身地の滋賀県や栃木県内で地域の在宅医療に携わってきました。
そこで強く感じたのが、重い障がいがある子どもとその家族が自分らしい生活を送るために、できることはないかということでした。
高橋昭彦医師:
「力を入れているのは在宅医療です。(医療を必要とする)お子さんたちはいろんな管が付いたり機械が付いているので簡単に通院できない。入院を必要としない程度の医療は地域でできたほうがいいと思うので」
しかし当時勤務医だった高橋医師には、小児科の在宅医療を受け入れる決定権がありませんでした。
葛藤を抱える中2001年9月、アメリカのホスピス研修に参加し責任者のシスターからかけられた言葉が心に響きます。
高橋昭彦先生:
「あなたの目の前のことをやりなさい。そうすれば必要なものは現れるからと。すとんと胸に落ちた」
そして数日後の9月11日、あの出来事が起こりました。
高橋昭彦先生:
「ある病院のホスピスを見に行ったら、その前方にあったビルが崩れて辺りに悲鳴が上がって、緊急車両も埃かぶって逃げてきて」
ニューヨークのマンハッタンでアメリカ同時多発テロに遭遇したのです。
高橋昭彦先生:
「緊急避難も経験して、もし自分が無事に日本に戻ることができたら自分の思い通りのことをやろうと。あれがなかったら思いきらなかった」
決意を固めてからわずか半年後の2002年5月、宇都宮市内にクリニックを開業。
これが医療的ケア児の一時預かり事業につながっていきます。
高橋医師は3年前から、栃木県から委託を受けて、医療的ケア児とその家族の相談所を開設しセンター長を務めています。
県民に広く医療的ケア児への理解を深めてもらうのも仕事の柱となっています。
高橋昭彦医師:
「病院で暮らすのはお子さんの成長にとって一番良いことでしょうか。そうではないと思います。もっと経験を積んでほしい。子どもは病院で育つのではない。社会全体で抱きしめて育てる」
社会全体で医療的ケア児を支えるために。
高橋医師は新たなビジョンを思い描いています。
高橋昭彦医師:
「社会的にお子さんを育てる仕組みがどこかで必要だと思う。将来的にはそういったお子さんたちが暮らせる家、グループホームのようなものを作れればと思う」
